【水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水】

この句において服部は冒頭の単語の並置ならびにそれらを読点で切ることでセマンティカルなだけでなく句の統語に対しても図像的とでも呼びうる類のインパクトを与えているが(多くの議論がそこ=単語萌えと隠喩的効果を巡った)、読点より後においても「わたし」の繰り返しを冗長さによろめかせることなく「傾く・巡る」という動詞を支えとして「水」というまさに冒頭の「水仙」から抜き出された(盗みとられた?)一語を結語へと滑り落としている。助詞「が、と、を」の組みを抜いた「わたし・傾く・わたし・巡る・わずか・なる(鳴る?)」の組みの規則性ならびに発話時における口唇的な気持ち良さもシンプルながら練られており、「水」を滑り落とさせる技巧と共に快句といえるだろう。

 

ところで、この「わずかなる」は「わずか・なる」と分解されるのではと考えられるのだが、その理由として、まず視覚的に3・2で(わたし・傾く、わたし・巡る)配列されているとみたとき、2は動きを表現しており、それを踏まえるならば、冒頭の「盗聴」という単語と「わずかなる」が「巡る」を通じた語「水」の句頭から尻尾への伝導過程(滑り落ち)において相互に呼応しているものとして、つまりは「わずか・鳴る」と分解することで序句と読点以降の連関をセマンティカルに示すことができるからだ(その線で読むとき、水仙の「傾」きから「水」が溢れて「わずか」に「鳴る」先は、水仙=ナルシスが見惚れていた己自身(「わたし」)の写し鏡(「わたし」の反復)、つまりはあの「水」面ではないだろうか)。また、そのとき最後の語は「みず」ではなく「すい」と響くのではないかとも考えたくなるのだが、ナルシスがどれだけ水面を見つめようと梨の礫だったように、何度盗聴を試みようと「水」はわずかにも鳴りはしないのだった。