【水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水】

この句において服部は冒頭の単語の並置ならびにそれらを読点で切ることでセマンティカルなだけでなく句の統語に対しても図像的とでも呼びうる類のインパクトを与えているが(多くの議論がそこ=単語萌えと隠喩的効果を巡った)、読点より後においても「わたし」の繰り返しを冗長さによろめかせることなく「傾く・巡る」という動詞を支えとして「水」というまさに冒頭の「水仙」から抜き出された(盗みとられた?)一語を結語へと滑り落としている。助詞「が、と、を」の組みを抜いた「わたし・傾く・わたし・巡る・わずか・なる(鳴る?)」の組みの規則性ならびに発話時における口唇的な気持ち良さもシンプルながら練られており、「水」を滑り落とさせる技巧と共に快句といえるだろう。

 

ところで、この「わずかなる」は「わずか・なる」と分解されるのではと考えられるのだが、その理由として、まず視覚的に3・2で(わたし・傾く、わたし・巡る)配列されているとみたとき、2は動きを表現しており、それを踏まえるならば、冒頭の「盗聴」という単語と「わずかなる」が「巡る」を通じた語「水」の句頭から尻尾への伝導過程(滑り落ち)において相互に呼応しているものとして、つまりは「わずか・鳴る」と分解することで序句と読点以降の連関をセマンティカルに示すことができるからだ(その線で読むとき、水仙の「傾」きから「水」が溢れて「わずか」に「鳴る」先は、水仙=ナルシスが見惚れていた己自身(「わたし」)の写し鏡(「わたし」の反復)、つまりはあの「水」面ではないだろうか)。また、そのとき最後の語は「みず」ではなく「すい」と響くのではないかとも考えたくなるのだが、ナルシスがどれだけ水面を見つめようと梨の礫だったように、何度盗聴を試みようと「水」はわずかにも鳴りはしないのだった。

Birkenau

Richterのこの作品はフィルムの現存しない四枚の収容所における写真イメージを大きすぎず小さすぎないが少なくとも美術館の壁の高さくらいまで拡大した四枚の塗り重ね削り板を四方のうちの一方の壁に並べ、それぞれに対して対となる転写版(印刷版)をまた他方の対面の壁に四枚並べた計八枚から構成されたものである。色彩としては黒、赤、緑などRichter特有の工業色的なラッカー風の毒々しいものが塗り重ねられた上で削り取られており(それを踏まえて転写、コピーされており)、その削り取りの度合いにおいて、元の雛形となっている写真のイメージが見えたり見えなかったりもする(が基本としては形態は判別しずらい)。分析としては①大きさの中程度の視覚オーバーさ、②色彩、③四幅対の構造、④コンセプトがポイントになる。①については他の作品でも度々あることだがRichterにおいては一望するには適切な距離をとる必要があり、つまりは一望を望むならば鑑賞者の立ち位置を作品こそが制約してくるわけだが(他方、別の種類の作品では一挙に一望させることを目論まれた絵葉書サイズの作品群もあるのだが)、この作品に関しては、その立ち位置の制約が③の四幅対であることによって、個々別々あるいは一方の壁一面(あるいはニ幅対を左右の目におさめる程度は可能)に対しては定めてくるわけだが、その全体に関しては取らせないつくりとなっており、適切な距離というコンセプト自体が半ば宙吊りにされてもいる。この視覚経験に対する作品を通じたアプローチは別部屋における八枚の大ガラスを角度を変えてそのまま立てて並べた作品と構成原理においては似ており、大ガラス作品においては採光、反射、そしてそもそもの枚数の多さからガラスであるにも関わらず見通しがなかったり、透過性が失われたイメージとしての鑑賞者がそこにはぼんやりとそれこそ幽霊じみて現れるのだが、Birkenauにおいては鑑賞者がイメージとして現れてくることはないものの、立ち位置の「不十分な十分さ」、つまり視点の固定なるものが浮遊させられつつもどこかに与えざるをえないという感覚が意識されるべく設えられている。②については(他の作品群をみながらも考えたことだが)モノクロの写真やイメージ、像に対するラッカー的な工業色での塗り絵(正確には重ね塗って飾り剥がす試行)をRichterは繰り返しており、彼の極彩色に対する趣向にはデザイン的な面白さを感じるものの、仮にそこに白黒に代表される写真イメージとの時間的な距離、対比を生み出そうとした加工であるならば、私はそれにはのれないなと思った(他方でドイツ国旗をジャスパージョーンズ風に描いて黄色を金ピカに塗り替えてる作品における反射、極彩色の使用は嫌がらせとしてのみ成功しているようにも思えた)。その一方でイメージなるものが本来的にもっていたであろう色彩なるものが常に媒介を通じて鑑賞者が受け取る色彩でしかないということを毛羽立ちをもって表現するという意志は強く感じた。ここにはイメージの存在論を巡るRichterの根底的な認識が現れているはずだ。③の四幅対については、その版画的転写の試みがもつオペレーションつまりは元となる型にフィルムが現存していないこと、それをコンセプトとして(使い古された言葉でいえば)コピーとなるフォルムのシミュラークルを反転をくわえて作り出す操作、行為、フィルムなきフォルムの操作による現出(=作品それ自体)に面白さを感じた。特に同じ部屋のもう一つの壁にグレイシリーズというモノトーン+ガラスの作品を四枚同時に並べることでガラスと鏡の違いを人に誤認識させつつ、幅対において、カラーコピーのような原理で反転させている(ような?)対のばかでかい対象を対面に貼っていく試みを並べるとき、そこには明らかに記憶と視覚における転写のあべこべさ、フィルム=媒介なきイメージがもたらす形態としての記憶が意図されているわけだが、それ以上に、壁に何かを些細にも細かく貼り付ける(そしてそれはおそらく写真や絵葉書、ピンナップやポスター、そして国旗などをピン留めしがちな人間の因襲を念頭にしているのだと思うが)という記念日や記憶をめぐる人間がやりがちな振る舞いに対してのRichterなりの半ば素朴にしてお土産物的なレディメイドのやり口以上ではないのかもしれないとも感じた。④については、おそらく一番議論されるだろうと思う。ただ、このスケール感、色彩、そして幅対が作り出している作品空間の奇妙なポップさ(フィルムなきフォルム=イメージの定立のしなささを定立させるやけバチな試み)、それに相対するコンセプトの禍々しさ、つまりはアウシュビッツという出来事が人類史にビビッドに貼り付けられた(そして西暦が磔からはじまっているのだとしたら)ペラペラであるがゆえに剥がしやすくも、どこの壁にも貼れてしまう腫れ物の固有名であることの表現、という対比(ポップさと陰惨さのズレ)にギャップを感じるとすれば、それはおそらく間違いであり、出来事として残存している写真媒介のそれがモノクロで歴史としては陰鬱であったとして、具体的には流血はなく殺され、燃やされていっただけの多くの死体を巡るライフなるものがあったとしても、それを遂行していった人々にも死体にも血肉伴うビビッドでかつマルチファセットな人生が(つまり視点固定の仕方に応じて輝き方の異なるそれが)あってしまったという事態を皮肉にも淡々もポップに作品表現として描いていることは誰もが作品体験において痛感するのではないかとも思う。なによりも元の写真イメージにおいて写されているはずのイメージの多くは作品においてはほぼ分節できない。これこそが本作の一番の鍵であり、それは分節されることではじめて把握されるイメージというものを分散させる戦略が固有名と視覚に依存しており、つまりは幽霊という隠喩の根っこには、歴史の出来事の断片として塗り込められていたとしても削って地層のように剥がす中からイメージなるものを掘り出すことが表現であればできるはずという媒体依存中毒への自戒があり、より率直に述べるならば歴史や固有名とイメージが結びつくときに圧縮や短絡化が「イメージ」をズタズタにするわけだが、まさにそれこそが「イメージ」をイメージとして成り立たせてしまうという業なるものを自作自演的に示すある種の敗北宣言なのかもしれない。ガラス八枚の作品とともに(そしてグレイシリーズとともに)傑作。